院長ヒストリー第1章
小さな体で大きな夢を追いかけた少年時代
私は滋賀県彦根市平田町で生まれ育ちました。幼い頃から体が小さく、走るのも遅かったのです。今思い出してもなんだか苦笑いが出ます。でも、そんな私にも得意なことがありました。身軽さを活かした山登りや、体育の授業での縄跳びでは誰よりも長く飛び続けられた時の喜びは今でも忘れられません。
家族は、時計メガネの個人商店で働く父、洋服屋で裁縫をする母、そして3つ年上の姉。特に母には本当に世話になりました。高校受験の時は早起きして起こしてくれ、朝6時に家を出る私のために2つもお弁当を作ってくれたんです。今になって、その愛情の深さがわかるようになり、感謝の気持ちで一杯になります。
幼少期は近所の空き地で、友人たちと鬼ごっこをしたり、ヨーヨーを使っていろんな技を練習していました。しかし、小学校になると空き地に集まる上級生の影響で、野球に憧れるようになりました。今すぐ野球を習いたい。そんな思いがありましたが、当時は小学4年生からじゃないと、少年野球に入部できなかったんです。
そして、小学校4年生で少年野球に入部しました。でも、最初は2軍のBチームでした。そこで私が見出したのが、「壁投げ」という地道な練習法。毎日コツコツと続けた結果、守備力が上がり、Bチームでは高く評価されるようになりました。
また、壁投げを練習していると、狙ったところにボールを投げることができるようになり、コントロールが良くなってきたのです。そのおかげで、コーチは私の投げるフォームを手本にしてくださいました。とっても嬉しかったことを覚えています。
中学時代も野球を続け、3年生の春の大会で初めてスタメンに。夏の地区大会では準優勝し、県大会にも出場できました。ただ、試合中に負傷し、途中退場。ベンチから仲間を応援する苦い経験もしました。
高校では新設校の4期生として入学。1年生で学年のキャプテンを任されましたが、上級生のキャプテンには技術面で及びませんでした。そこで私が取った行動は、練習への取り組み方や日常生活での姿勢を徹底すること。掃除や雪かきに率先して取り組み、野球部の模範となるよう心がけました。その努力が実を結び、2年生の時には県の強豪校に逆転勝ち。かつてない好成績を収め、学校中の注目を集めるまでになりました。
しかし、野球人生は順風満帆ではありませんでした。度重なる怪我に苦しみ、そこで出会ったのが鍼灸治療でした。肉離れで足を引きずっていた私が、鍼を打ってもらうと普通に歩けるようになった時の驚きは今でも鮮明に覚えています。
当時の私は怪我をした時や、体の不調がある時は病院ではなく、鍼灸院の先生の顔が真っ先に浮かんでいました。そして、体を治していただくことに誰よりも信頼を置いていたのです。
いつも鍼灸院で治療を受けた後は、痛くて曲げ伸ばしできなかった膝が動くようになる。腰が痛くてカバンを持つことも一苦労だったのに、治療後は何の問題もなく動ける。
当時は鍼灸治療ってなんでも治る魔法でした。「いつか働くならこんな仕事ができればいいな」と、思うことはありましたが、まさか10年後は鍼灸師の資格を取り治療をしているなんて当時は考えもしていませんでした。
最後の夏の大会。チームはベスト8まで勝ち進みましたが、私のエラーと最後の打席で負けてしまいました。悔しさは今でも心に残っています。
そんな時、偶然目にした雑誌で鍼灸大学に進学した方の特集を読みました。
自分の体を治してくれた先生のように、誰かの痛みを和らげる仕事がしたい。そう強く思い、明治鍼灸大学への進学を決意したのです。
小さな体で大きな夢を追いかけ続けた少年時代。
挫折や失敗を乗り越え、コツコツと努力を重ねてきました。その経験が、今の私を支える大きな力となりました。壁投げから学んだ教訓は、技術を生涯かけて研鑽し続ける手法として私の体に刻み込みました。
野球少年だった私の人生を鍼灸治療で支えてくれた先生と同じく、患者さんと施術を通じて、人生を豊かにしていける治療家になりたい。そんな治療家を目指して、これからも精進を続けて行く所存です。